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悪口を言われたとき、どう受け止めるか——新渡戸稲造が『修養』で説いた4つの段階
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悪口や陰口を言われたとき、どう受け止めればよいか。新渡戸稲造は『修養』で、この問いに4つの受け止め方を挙げている。相手を見下して自分を慰める。世の中はそういうものだと受け流す。言われたことを、自分を省みる材料にする。そして、悪く言った相手を憐れみ、愛そうとする。新渡戸はこの4つを同じ重さで並べたのではない。消極的なものから積極的なものへ、低い段から高い段へと順に積み上げ、最初の一つを最も劣るものとした。
悪く言われることからは逃れられない
新渡戸の出発点は、人の口にのぼることから逃げ切れる人はいない、という見方だ。名の知れた人は新聞に書き立てられ、名もない人は近所の噂話の種になる。社会の中で生きるかぎり、ほめられることも悪く言われることも、ついて回るという。
だから問題は、悪口を避けることではなく、言われたあとに心の釣り合いを崩さないことにある。新渡戸は、崩れ方には三つあると書く。かっとなって怒る。嘆いて、生きる張り合いまでなくす。そして、どうせそう言われるならと、言われたとおりのことをわざとやってしまう。
新渡戸は、この話を聖人や英雄に向けてするのではなく、普通の人に向けてすると断っている。4つの段は、そのための足場である。
第一の段——相手を見下して、自分を慰める
いちばん手近なのは、悪口を言った相手のほうを低く見ることだ。あんな者の言うことは取るに足りない、何か下心があるのだろう。そう考えて気を収める。腹の立つことがあると、人はこの考えに傾きやすい。新渡戸もそれを認め、これも一つの対し方ではあるとしている。ただし最上のものではなく、消極的だという。
新渡戸がこの方法を最も低く置いた理由は、その先にある。見下しているだけなら、自分も相手もさほど傷つかない。だが考えをもう一歩進めると、あんな者は放っておけば世の害になるから懲らしめてやろう、という理屈になりかねない。新渡戸は、ここから穏やかでない振る舞いに行き着くこともあるとして、4つのうちで最も劣るものだと書いた。
相手を小さく見ることで自分を守るやり方は、手軽なぶん、相手を罰してよいという考えに滑り込みやすい。この段を一番下に置いたところに、新渡戸の見方の芯がある。
第二の段——世の中はそういうものだと受け流す
二つ目も消極的な方法だが、一つ目よりずっと穏やかで、受け身である。悪口を言う人はどこにでもいる。何もしなくてもほめられることがあるのだから、何もしなくても悪く言われることもある。そう考えて、気にかけずにやり過ごす。
新渡戸によれば、これは気性の穏やかな人が取りやすい方法で、普通の人にも届かない境地ではない。悪く言われる経験を重ねること自体が、この落ち着きに至る稽古になるという。
ただ、受け流すだけでは、言われる前の自分のまま、そこにとどまる。新渡戸はそこに物足りなさを感じ、もう一歩進みたいと書いた。
第三の段——言われたことを、自分を省みる材料にする
ここから方法は積極的なものに変わる。悪口という不愉快な出来事を、自分が一段上へ進むための足場に使う。言われたことを手がかりに、自分を振り返るのである。
新渡戸は、これが口で言うほどたやすくないことも見ていた。根も葉もない話だが、そう言わせたのは自分の至らなさだ、という言い方はよく耳にする。けれども本心からそう思う人は少なく、多くは言った相手を敵と見て憎む、と新渡戸は書く。そのうえで、ある古歌を引いている。
憎むとも憎み返すな憎まれて 憎み憎まれ果てしなければ
——『現代語訳 修養』第七章に引かれた古歌
憎めば憎まれ、憎まれればまた憎む。そうなると悪口は、自分を省みる材料になるどころか、終わりのない悪感情の種になる。
新渡戸はまた、身に覚えのない悪口と、少しでも心当たりのある悪口とを分けている。まったく覚えのないことなら、心の底ではそれほど恨みも湧かない。省みる材料にしたいのは、思い当たる節があるときのほうだという。なるほど自分が悪かった、と認めるのは難しい。新渡戸自身がそう書いている。
同じ章で新渡戸は、人に知られないことより、自分を知らないことを憂えよ、とも述べている。悪口は、自分では見えていなかった自分を、他人の口から知らされる機会にもなりうる。
第四の段——悪く言った相手を、憐れみ、愛そうとする
新渡戸はさらに上の段を示す。身に負うべきでない恥を負わされたとき、言った相手を気の毒な人だと思って憐れみ、さらには愛するところまで心を高めたい、というのである。例に挙げられるのは、十字架の上で、自分を罵る者たちのために祈ったイエスの姿だ。
新渡戸はこれを、不名誉に向き合ういちばんの方法としながら、普通の人はもちろん、聖人君子でもなかなかできないと認めている。それでもこの段を掲げる理由を、こう書く。
たとえ天上には達せられなくとも、目標はかくも高い所に置きたい。
——『現代語訳 修養』第七章「名誉に対する心懸」
高い所を目指して努めれば、愛するところまでは行き着かなくても、憎んだり恨んだりすることだけはやむだろう、と新渡戸は言う。反対に、憎しみを抱えたままでいると、それは自分の心に毒を入れられたようなもので、やがて言葉や振る舞いを通して周りの人にまで広がっていく。
今日から使うために——いま、どの段で受け止めているか
悪口を言われたときは、次の順に自分を確かめてみる。
- 揺れ方を見る。 いま自分は怒っているのか、落ち込んでいるのか、それとも、どうにでもなれと投げやりになっているのか。
- 段を確かめる。 相手を見下すことで気を収めていないか。受け流すことで、考えずに済ませていないか。
- 心当たりを探す。 言われたことの中に、少しでも思い当たる節はないか。あれば、そこだけを拾って省みる。
- 憎み返さない。 相手を愛するところまでは行けなくても、敵と見て憎むことだけはやめる。
4つ目の段に届くのは聖人君子でも難しい、と新渡戸自身が書いている。いきなりそこを目指さなくてよい。まずは、相手を見下す一つ目の段から抜け出すこと。目標は高い所に置いたまま、今日はせめて、憎み返さないところまで。
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